
敢國神社
Aekuni-jinja Shrine
敢國神社の予備知識
敢國神社は伊賀国一宮です。安倍氏・阿部氏など有力氏族の祖神を祀っているほか、服部氏の祖先である秦氏ともゆかりの深い神社です。
敢國神社の所在地
敢國神社の祭神
主祭神 | オオヒコ(大彦命 / 大毘古命) Ōbiko-no-mikoto |
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配祀神 | スクナヒコナ(少彦名命) Sukunabikona-no-mikoto |
カナヤマヒメ(金山比咩命) Kanayamabime-no-mikoto |
主祭神
皇族将軍
主祭神オオヒコ(大彦命)についてですが、一般的にはあまり聞き慣れない名前かと思います。『日本書紀』によれば、第8代孝元天皇ことヤマトクニクルの皇子です。
また、『四道将軍』の一人として北陸地方を制圧し、ヤマト王権に従属させたということになっています。
敢国津神
オオヒコ(大彦命)はその後、この辺り伊賀地方の阿拝郡を統治しました。なので、諸文献にその名が見える『敢国津神』と同一人物と見なされています。ただ、国津神は領主という意味のいわば役職名です。なので、敢国津神という人物は複数人、複数世代に渡って存在していたと考えられます。
安倍氏・阿部氏の祖神
オオヒコ(大彦命)は阿部氏や安倍氏など有力氏族の祖神とされています。これに関しては後でもう少しだけ掘り下げてみます。
配祀神二柱
秦氏の祖神
配祀神のうち、スクナヒコナ(少彦名命)は渡来民族である秦氏の祖神です。この地域は秦氏と関わりの深い土地なのです。これに関しても、後ほど「周辺地域」の節にて、もう少し詳しく説明します。
鉱山の女神
一方のカナヤマヒメ(金山比咩命)は鉱山の女神です。美濃国一宮、南宮大社の主祭神であり男神であるカナヤマヒコ(金山毘古命)と対を成す存在です。なので、女神のほうを南宮大社から勧請したと考えることができます。もしそうでないとするならば、似たような別の神様が後付けで兄妹神設定となったパターンかもしれません。
敢國神社を主観的に格付け
由緒
★★★★☆
創建年:飛鳥時代(658)
あくまで、社伝に記される創建年です。
社格
★★★☆☆
式内社(式内大社)、旧国幣中社、別表神社、伊賀国一宮
一宮神社としては平均的な社格です。
知名度
★★☆☆☆
一宮神社であることを差し引けば、知名度は若干低めかと思います。
アクセス
★★☆☆☆
・名阪国道(R25)伊賀一宮ICより5分程度、駐車場あり
一宮神社としては、若干辺鄙な場所かもしれません。ただ、名阪国道のICからは近いです。
スケール
★★☆☆☆
体感的には狭く感じます。ただ、摂社末社のエリアまで含めると実際はそれなりに広いはずです。
観光
★★☆☆☆
敢えて観光目的で来るほどではないでしょう。
パワー
★★★★☆
交通安全、健康長寿、商売繁盛など
一宮神社にしてはそれほど人が多くないので、一人当たりが享受できるパワーも大きいでしょう。それでなくても、長閑な光景に癒されるはずです。
敢國神社の周辺地域
伊賀市の地政学
旧伊賀国
三重県伊賀市は隣の名張市と共に、旧国でいうところの伊賀国に属します。
伊賀国の東隣、伊勢国との間には険しい布引山地が横たわり、古来より交通の難所でした。現在、両国は同じ三重県ですが、山の東西で生活圏が異なります。どちらかと言えば西は京阪神圏、東は名古屋圏です。
忍者の里
伊賀といえば忍者の里として有名です。伊賀忍者といえば服部半蔵を思い浮かべる人が多いでしょう。服部半蔵は本能寺のクーデター(1582)の際、徳川家康を山越えルートで伊賀から伊勢へと脱出させました。
ところで、『服部』の由来は機織りです。機織りは渡来人の一族である秦氏が伝えた技術です。機織りだけでなく、製鉄を含め様々な技術を伝えたと考えられます。
敢國神社境外
敢國神社は長閑な集落の一角にあります。
忍者の顔出しパネル
駐車場前には忍者を描いた記念撮影用の顔出しパネルがあります。このパネルは伊賀市と、隣の滋賀県甲賀市の名所旧跡各所に設置されています。両市はいずれも忍者の里として名が知られています。
松尾芭蕉句碑
駐車場から右手の表参道に入ってすぐのところに、松尾芭蕉(1644-1694)の句碑があります。
手ばなかむ おとさへ梅の にほひかな
「鼻をかむ音さえも風流に感じられるほど、梅の盛りですなぁ・・」みたいな意味だそうです。鼻をかむなんて言葉を詩に入れるなんて、なかなかフロンティア精神旺盛な人ですね。
松尾芭蕉の出生地は伊賀国阿拝郡。そう、まさにこの辺り出身なのです。そういえば、松尾芭蕉が実は忍者だったなんていう説もありますね。忍者のイメージとは程遠いですが、まあ、可能性として無くはないでしょう。
いかにも私は忍者ですなんて格好してたら忍者にならないし


敢國神社の鳥居
さて、表参道を少し歩けば、綺麗な鳥居が見えてきます。鳥居の横にはディスプレイもあり、小規模ながら立派な神社という印象を受けます。
おそらく、小規模で維持管理コストが低い割に、寄進する人が多いのではないでしょうか? 一宮の肩書きが有るのと無いのでは大違いですね。


南宮山登山口
鳥居前をスルーして、もうあと50mほど進めば南宮山(349m)の登山口があります。別名は伊賀小富士、もしくは国見山です。その名の通り、敢国津神は山頂から国見をしていたのでしょう。
敢國神社境内
さて、先ほどの鳥居をくぐって、境内に入りましょう。
本殿・拝殿
鳥居のすぐ正面に、拝殿へと続く石段があります。ここからの眺望も悪くありません。
立派な拝殿の奥に祝詞殿と本殿があり、拝殿の脇から見ることができるはずですが、スルーしてしまいました。


摂社・末社
拝殿に向かって左手、駐車場へ帰る方向にいくつかの摂社・末社があります。
むすび社
むすび社は本殿・拝殿よりも高い場所に鎮座している末社です。文字通り縁結びのご利益があるそうです。
大石社
文字通り磐座を祀ってあります。



敢國神社の社名と主祭神について
さて、冒頭でも触れた安倍氏や阿部氏と主祭神の関係について、もう少し掘り下げてみましょう。
地名と社名の転訛
アエの子孫がアベ?
さて、先述の通り、主祭神オオヒコ(大彦命)は阿部氏や安倍氏の祖神です。彼は阿拝郡、つまりこの辺りの領主となり、子孫は阿拝姓を名乗りました。
勘の良い方であれば、この阿拝氏っていうのが、敢國神社の名前の由来に関係してるんだなと気付くでしょう。しかし、阿部氏や安倍氏とは関係なさそうに見えますよね? 現代人の感覚だと「Ae」と「Abe」って全く違いますからね。
でも、よく考えてみれば『阿拝』と書いて「Ae」と読むのだって、変といえば変ですよね?
古代のハ行はバ行
敢國神社と阿部氏・安倍氏の関係を語る上で不可欠なのは、古代の仮名遣いが現代と異なるという点です。具体的には、「ハヒフヘホ」と書いて「pa pi pu pe po」や「ba bi bu be bo」、あるいは「fa fi fu fe fo」と読んでいました。
もちろん、古代の音源は残っていないので数ある学説の一つに過ぎません。地域や時代によって誤差もあるでしょう。しかし、ハ行の発音に関しては多くの研究家の中で概ね意見が一致しています。
ともかく、「アヘ」と書いて「Abe」と読んでいた可能性が非常に高いのです。つまり、『敢國』や『アヘクニ』、あるいは『阿拝国』と書いて「Abe-guni」と発音していたように思われるのです。
時系列
私個人の推測込みで恐縮なのですが、時系列でまとめると、こんな感じです。
- 古来より「Abe」という地名があり、仮名で『アヘ』と表記していた
- 漢字が伝来し、『アヘ』に対して『阿拝』『阿閇』『安倍』『阿部』そして『敢へ』などの字が当てられる(読みは全て「Abe」)
- 時代とともに『アヘ』の読みが「Abe」→「Afe」→「Ahe」→「Ae」と転訛し、『阿拝』や『敢へ』の発音が「Ae」になる(一方で『安倍』や『阿部』は「Abe」のまま定着した)
- 『敢國』と書いて「Aekuni」と発音するようになる
このように考えれば、敢國神社の主祭神が阿部氏や安倍氏の祖神であることも頷けますよね?
主祭神はアベさんの祖神か
神様の子孫は言ったもの勝ち?
では、本当にオオヒコ(大彦命)はアベさんの祖先なのでしょうか? こればかりはなんとも言えません。なぜなら、こういうのは言ったもの勝ち的な側面があるからです。
阿部姓や安倍姓の人たちの祖先が、阿拝郡、つまり敢国神社近辺の領主であった可能性は多いにあり得ると思います。ただ、それが四道将軍の一人で皇族でもあるオオヒコ(大彦命)と同一人物かどうかは定かではありません。そもそも四道将軍自体、有力氏族が自分の血統に箔をつけるための創作かもしれないですからね。
本名はヤマトアエクニ?
一方で、オオヒコ(大彦命)の本名が『ヤマトアエクニ』だという説が散見されます。ただ、漢字表記が見当たらないのでおかしいなと思っていたら、出処は『ホツマツタヱ』のようです。
ホツマツタヱはカタカナ以前の古代文字とやらで書かれた古文書で、『古事記』や『日本書紀』の元ネタとされています。なのですが、江戸時代に創作された偽書という説が根強いです。私自身は完全否定派ではありませんが、信憑性には疑問符を付けざるを得ないです。
御朱印
