
建勲神社
たけいさおじんじゃ(けんくんじんじゃ)
Takeisao-jinja <Kenkun-jinja> Shrine
建勲神社の予備知識
建勲神社は京都市街の北部、船岡山の山上に鎮座し、織田信長を主祭神とする神社です。地元では「けんくんさん」の愛称で親しまれています。
建勲神社の所在地
建勲神社の祭神
言わずと知れた戦国のヒーロー、織田信長を主祭神としています。暴君として描かれることが多い人ですが、実際は合理主義かつ正義感の強い人だったようです。
配祀神である織田信忠は信長の長男です。有能エピソードの多い人ですが、『本能寺の変』の際に、二条御所(後の二条城)にて明智光秀の軍に討たれました。
主祭神 | 織田信長(1534-1582) Oda-Nobunaga |
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配祀神 | 織田信忠(1557-1582) Oda-Nobutada |
なお、神社側は信長父子の生前の官位に準じて「信長公」「信忠卿」と呼んでいます。ちなみに、信長の官位は右大臣、信忠は三位中将です。
建勲神社を主観的に格付け
由緒
建勲神社は元々、明治二年(1869)に天童藩(現在の山形県)の藩主だった織田信敏が江戸(現在の東京)の自邸に建立した『健織田社』がルーツです。この時期、戦国大名(というより藩主の祖先)を祀る神社の建立が流行ったようです。
その翌年、健織田社は所領である天童藩にも分祀されますが、そちらは現在の山形県天童市にある建勲神社です。一方、江戸の健織田社は京都の船岡山に遷座するのですが、こちらが今回紹介するほうの建勲神社です。
なお、豊臣秀吉(1537-1598)の時代、船岡山に『天正寺』という、織田信長を供養する寺院の建立が計画されましたが、実現しませんでした。
社格
別格官幣社は、国幣社と同じか、ちょい下くらいの位置付けだそうです。国家のために忠節を捧げた武将を祀る神社に対して与えられた社格です。
知名度
織田信長は歴史上の人物の中でも超メジャーですが、神社の知名度はそこまで高くないのではないでしょうか。私の場合、豊国神社は子供の頃から知っていましたが、建勲神社は神社巡りを始めてから知りました。
アクセス
- 地下鉄『北大路』(Kita-ōji)駅
→金閣寺方面行きのバスに乗車6分『建勲神社前』(Kenkun-jinja-mae)バス停
→大鳥居まで徒歩5分
北大路駅は京都市内北部の観光拠点として便利です。地下鉄駅の真上にバスターミナルがあり、青のりばで金閣寺方面行きのバスに乗れば良いです。金閣寺へ向かう観光客が圧倒的に多いと思うので、混雑が不安であれば、早めに並んで前方座席付近を確保しておくのが良いでしょう。
スケール
船岡山と一体となっており、そこそこ広く感じます。
観光
船岡山自体は特に観光地というわけではありません。ただし、『五山送り火』のビューポイントとして知られています。また、近くに大徳寺があり、少し足を伸ばせば金閣寺や北野天満宮もあります。
パワー
信長公のご利益以前に、船岡山自体が地殻変動の遺物なので、大地のパワーを感じられる場所です。
建勲神社の周辺地域
船岡山の地政学
平安京の真北
船岡山(112m)は京都盆地の北部の市街地に囲まれた小さな山です。現在の京都御所から見ると北西方向ですが、平安京ができた当時(794)の御所から見れば真北です。平安京造成時、船岡山を目印として、南北のメインストリートである朱雀大路(現在の千本通)が引かれました。
丘は船岡
名前の由来は「船みたいな形の丘」だという説があります。たしかに、東山あたりから船岡山方向を望めば、それっぽく見えます。
また、清少納言(966-1025?)の『枕草子』にも登場し、「丘は船岡」と讃えられています。古くから貴族たちにとって憩いの場でした。
西陣
応仁の乱(1467-1477)で西軍が船岡山に本陣を置いたことから、周辺地域は西陣と呼ばれるようになりました。有名な『西陣織』は応仁の乱終結後に、絹織物職人がこの辺りに集結したことで発展したようです。
五山送り火のビューポイント
船岡山は上の地図で示した通り、京都の風物詩である『五山送り火』(通称:大文字焼き)のビューポイントでもあります。
地層マニアの聖地
また、船岡山は地層マニアにとっての人気スポットでもあります。太古の昔、京都盆地は海の底だったのが、プレートテクトニクスによって陸上に隆起しました。船岡山は隆起の歪みでできた山なので、地層が剥き出しになっている箇所がいくつもあります。
建勲神社境外
建勲通
建勲通は建勲神社への参道で、北大路通に並行する東西の通りです。北大路通の『建勲神社前』もしくは『大徳寺前』バス停から南へ200mほど歩けば建勲通に交差します。


船岡温泉
大鳥居前で左へ曲がり、100m先の突き当たりを右へ曲がれば、左手に船岡温泉があります。いわゆる銭湯ですが、施設の一部が国の有形文化財に指定されています。
船岡山は小規模とはいえ山なので、参拝時はけっこう汗をかきます。参拝後にここで汗を洗い流すのが良いかもしれません。なお、平日の営業時間は午後3時以降のようです。

建勲神社境内・船岡山
さて、大鳥居をくぐって境内に入りましょう。大鳥居正面と左手に、それぞれ石段があります。
稲荷神社エリア
正面の鳥居を登った場所に二社の稲荷神社が鎮座しています。社名が非常に意味深です。
社名 | 稲荷命婦元宮 Inari-Myōbu Motomiya | 義照稲荷神社 Yoshiteru Inari-jinja |
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配置 | 向かって左手奥 | 向かって右手前 |
社格 | 伏見稲荷大社命婦社の元宮 | 建勲神社の末社 |
祭神 | 船岡山の霊狐 | ウカノミタマ クニトコタチ サルタヒコ |
義照稲荷神社
まず、右手前の義照稲荷神社から解説します。「義照」と聞けば室町幕府最後の将軍である足利義昭、あるいはその兄である足利義輝を連想してしまいます。特に前者は織田信長と関わりの深い人物なので何か関係がありそうに思えますが、実際のところ直接的な関係は無さそうです。
そもそも、稲荷信仰は奈良時代(8世紀)に渡来人の一派である秦氏によって持ち込まれた宗教です。秦氏はこの地域を拠点として活動し、織物や農業など多くの産業発展に寄与しました。なので、伏見稲荷と同様、義照稲荷もこの時代に創建されたと考えられています。なお、秦氏は平安京遷都にも深く関わっていると言われています。
稲荷命婦元宮
命婦とは本来、宮廷に仕える女官のことです。しかし、稲荷神社にとっての「命婦」とは、稲荷神の随神である白狐を指すようです。かの有名な伏見稲荷大社には『白狐社』という末社があり、その名の通り白狐の御霊が祀られています。
一方、ここ船岡山の稲荷命婦元宮には、伏見稲荷の白狐にとっての親神が祀られています。つまり、義輝稲荷の随神と伏見稲荷の随神は親子関係というわけです。となると、義照稲荷が伏見稲荷の元宮という可能性も十分にあり得るかと思います。



本殿エリア
さて、稲荷神社を後にして、さらに石段を登って、上のエリアを目指しましょう。
社務所・貴賓館・祭器庫
石段を100段くらい登れば、見晴らしの良いエリアに到着します。ここに貴賓館や社務所、それに祭器庫があります。これらの建造物は平成20年(2008)に国の有形文化財に登録されました。
このエリアから東山方面と、京都盆地の南方向をよく見渡すことができます。



拝殿
社務所前から、さらに石段を登れば拝殿があります。こちらも平成20年(2008)に国の有形文化財に登録されています。
また、拝殿の内側に『織田信長公三十六功臣』のうち12人の肖像画を描いた額が掲げられています。12人の選出は年によって入れ替わるそうです。



本殿・神門
拝殿の奥に本殿がありますが、その手前に神門(祝詞舎)が立ちはだかっています。もちろん、これらの建造物も国の重要文化財に登録されています。
また、拝殿→神門→本殿の延長線上に船岡山の頂上があります。頂上へ行くには、いったん社務所前の石段を降りる必要があります。

船岡山公園
頂上
船岡山の頂上から西にかけての一帯は公園になっています。応仁の乱(1467-1477)では、ここに西軍の城である船岡山城がありました。城といっても物見櫓程度のものだったと思われます。たしかに、ここからだと敵軍の様子が一望できます。


チャート
冒頭で述べた通り、船岡山は地層マニアの聖地でもあります。船岡山ではチャートと呼ばれる岩盤群が随所で見られます。
チャート(chert)とは、海底に堆積したプランクトンの死骸が固まって形成された岩石です。京都盆地は大昔、海底にあった為、地下にはチャートの地層が形成されています。それが隆起で生じた歪みにより、船岡山をはじめ一部の場所で、地表に露出しているわけです。
正確なところは、専門家の方のサイトをご覧ください。



建勲神社の御朱印
信長公を祀る神社らしい、猛々しい筆跡ですね。「でかした」に笑ってしまいました。
