
熊野大社
Kumano-Taisha Shrine
熊野大社に関する予備知識
熊野大社は出雲国一宮です。出雲大社より早く一宮に認定されており、しかも熊野三山の源流という説もあります。
熊野大社の所在地
熊野大社の祭神
主祭神は熊野大神クシミケヌ(櫛御気野命)です。水と農業を司る神様です。スサノオ(素戔嗚尊)と同一神とされていますが、異説もあります。なお、フルネームは以下の通りです。
主祭神 | 伊邪那伎日真名子 加夫呂伎 熊野大神 櫛御気野命 Izanagi-no-Himanako Kaburogi Kumano-no-Ōkami Kushimikenu-no-Mikoto |
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熊野大社を主観的に格付け
由緒
社伝によれば、神代に創建されたことになっています。
社格
知名度
出雲大社や和歌山の熊野三山と比べると、全国的にはあまり知られていないでしょう。
アクセス
- JR松江駅付近→車で25分程度(大型駐車場あり)
バスは運行本数が少ない上に要乗換です。
スケール
観光
観光要素に関しては過度に期待しないほうが良いです。
パワー
熊野三山の源流?
島根の熊野大社と聞いても、あまりピーンと来ない人が多いのではないでしょうか?
実は和歌山の熊野三山も、ここ熊野大社の分流だという説があります。つまり、熊野大社のほうがオリジナルで、熊野三山のほうはその派生だというものです。なお、熊野三山側は逆の立場を主張しています。
出雲大社よりも格上?
また、平安時代以前、この地域において最も格の高い神社は出雲大社ではなく、ここ熊野大社だったのです。そもそも、出雲大社という呼称自体も近代以降のもので、元の名前は『杵築大社』です。
熊野大社では毎年10月15日に『鑽火祭』という祭事がおこなわれるのですが、この行事が両社の関係性を面白く表現しています。熊野大社が出雲大社に餅つきの臼と杵を下賜し、出雲大社の宮司が作った餅に対して熊野大社の宮司がケチをつけるというものです。
熊野大社の祭神スサノオは、出雲大社の祭神オオクニヌシにとって義父にあたりますから、やはり熊野大社のほうが先輩格です。
もしかすると、古代出雲王朝には大きな宮殿が二つあったのかもしれません。
・海の近くに新しく築いた宮殿が杵築大社(出雲大社のこと)
・クマのほう(奥のほうという意味)の古い宮殿が熊野大社
以上のような位置付けだったのではないでしょうか?
熊野大社の周辺地域
松江市と合併する以前は八雲村だった地域です。山間部なので酷道険道だったらどうしようとか懸念していましたが、思いのほか快走路でした。松江市中心部から20分もかかりませんでした。
八雲温泉ゆうあい熊野館
熊野大社のすぐ隣に、ゆうあい熊野館という温浴施設があります。ぜひ、のんびりしていきましょう。

熊野大社境外
意于川に架かる神橋の両端に鳥居が立っています。まさに天然の掘です。



熊野大社境内
かつて古代出雲王朝の中枢機能がここにあったことを彷彿させるような佇まいです。
参道
随神門
随神門に注連縄が飾られています。向きは出雲大社と同じですね。

神域
舞殿・鑽火殿
拝殿に向かって左右にそれぞれ、鑽火殿と舞殿があります。鑽火とは木の摩擦による発火方法で、スサノオによってもたらされたことになっています。


本殿・拝殿
随神門と同様、大きな注連縄が掛けられています。訪問前は何となく出雲大社の下位互換的なイメージを抱いていました。しかし先述の通り、こちらのほうが先輩格です。



摂社・末社
スサノオの妻クシナダ姫(櫛名田比売命)を祀る稲田神社のほか、スサノオの母イザナミ(伊邪那美命)を祀る伊邪那美神社などがあります。


熊野三山との関係を浅く考察
さて、「熊野」と言えば、多くの人は紀伊半島南部(和歌山県南部〜三重県南部)をイメージするでしょう。なので、熊野三山との関連性について、もう少しだけ掘り下げてみましょう。
どちらもスサノオだけど
両者のルーツは全くの別系統という説もあれば、片方がオリジナルでもう片方が分流という説もあります。
熊野大社も熊野三山も祭神はスサノオです。とはいえ、スサノオを祀る神社なんて全国に星の数ほどありますし、本来は全然別の神様だったのが後付けで習合したというのはよくあるパターンです。
では、主祭神以外の共通点を探してみます。いちおう、注連縄の向きが同じということに加え、火に関係する催事が行われるという共通点があります。でも、これだけでは説得力に欠けますね…
もし同一ルーツだとすれば
少し強引ですが、両者が古代出雲王国をルーツとする同一系統だと仮定した場合の話をしましょう。その場合、出雲勢力が島根から紀伊半島南部にまたがる広大な範囲に及んでいたと考えるべきです。
それが瀬戸内海エリアや大和盆地あたりから徐々に別勢力に侵食されて、紀伊半島南部が出雲勢力の飛び地みたいになったのではないでしょうか? ではなぜ、紀伊半島南部は侵食されなかったのでしょうか?
まあ、あくまで妄想です。
熊野三山は熊野大社以上に山奥、古い日本語でいう「クマ」の地にあるので、たまたま名前が同じなのかもしれません。
ただ、これはバイアスかもしれませんが、紀伊半島南部あたりの方言は京阪神あたりとはかなり異なり、少しズーズー弁ぽい響きがあります。容姿も少しだけ縄文系ぽい人の比率が高いように思われます。
少し逸脱しましたが、両社のルーツが同じだったら面白いなという希望的観測も込めて、こういう独り言を書き連ねた次第です。
熊野大社の御朱印
