
北野天満宮
Kitano-Tenmangū Shrine
北野天満宮の予備知識
北野天満宮は全国に1,000社以上ある天満宮の総本社です。平安時代の政治家であり学者でもある菅原道真を主祭神としています。
北野天満宮の所在地
北野天満宮の祭神
主祭神 | 菅原道真(845-903) Sugawara-no-Michizane | |
---|---|---|
相殿神 | 菅原高視 Sugawara-no-Takami | 菅原道真の長子 |
菅原吉祥女 Sugawara-no-Kitshoume | 菅原道真の妻 |
菅原道真は平安時代の政治家であり、学者でもあります。第59代宇多天皇からの信頼が篤く右大臣にまで昇進したものの、政敵の讒言によって流刑となり、失意のまま世を去りました。
文章博士
学者の家系で生まれ育った菅原道真は、幼少の頃から漢詩が得意で、若くして文章博士に就任しています。
百人一首
『小倉百人一首』の歌人の一人である『菅家』は菅原道真と同一人物です。以下の歌は百人一首だけでなく『古今和歌集』にも登場します。
“このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神の随に”
・このたびは:「この度は」&「今回の旅は」
・ぬさ:祈祷で用いられるお供え物、もしくは旅立つ人への餞のこと
・取りあえず:「(慌ただしくて)準備する暇もありませんでした」
・たむけ山:「たむけ」(ほぼ「ぬさ」と同義)&奈良の東大寺付近の地名
・紅葉の錦:「色とりどりの紅葉(を)」
・神のまにまに:「神の思し召しのままに(お受け取りください)」
それにしても、「神のまにまに」を見ると90年代のポップ・ミュージックを連想してしまいます
白紙に返そう遣唐使
菅原道真は寛平六年(894)、遣唐使の廃止を提言した人物としても知られています。
太宰府に左遷
右大臣にまで昇進した道真ですが、藤原家などに比べるとそこまで家柄が高いわけではないため、色々と妬みを買うことが多かったようです。そのためか、政敵の讒言によって謀反の疑いを着せられ、降格の上、太宰府に左遷されてしまいました。そして、そのわずか2年後の延喜三年(903)に太宰府で世を去りました。
左遷とはいえ、もともと右大臣だった人だから、それなりに良い暮らしをしていたのではないかと思ってしまいそうですよね。しかし、本人の著書によれば衣食住にも事欠く不自由な暮らしをしていたようで、事実上の流刑だったようです。自分を陥れた者たちに恨みを抱いたまま亡くなったとしても不思議ではありません。
清涼殿落雷事件
延長八年(930)、京都御所の清涼殿を雷が直撃し、当時の大納言らが即死するという事件がありました。また、その場に居合わせた第60代醍醐天皇も精神的ショックのせいか、数ヶ月後に崩御しました。
道真の没後、四半世紀も後の出来事ですが、犠牲者に道真の政敵が含まれていたことから、人々は道真の怨霊の仕業だと噂しました。
例え話ですが現代でいえば、国会議事堂で閣僚クラスが生放送の演説中に雷に打たれるようなものです。現代人でさえ、もしそんな現場を目の当たりにすれば、何かの呪いや祟りかと疑ってしまうでしょう。平安時代なら言わずもがなです。
ともかく、この事件は菅原道真が天神すなわち雷神として畏怖されるようになったきっかけの一つです。そして、雷神となった道真の怨霊を鎮めるべく建立されたのがここ、北野天満宮というわけです。
雷神から学問の神様へ
雷神として恐れられた菅原道真ですが、年月とともに学問の神様として崇敬を集めるようになりました。道真が生前、優れた学者であった為です。
あくまでイメージですが、政治的な駆け引きや裏工作は苦手で、学問や芸術を好む純粋な人柄だったように思えます。
北野天満宮を主観的に格付け
由緒
創建の経緯は先述の通りです。
社格
全国に数多存在する天満神社(「天満」や「天神」と名の付く神社)の総本社です。なお、福岡県の太宰府天満宮は天満神社の「総本宮」であるという主張をしています。それ以外にも、天神信仰のルーツと言われる神社は幾つかあります。
知名度
受験祈願の定番として、全国的に有名ですよね。
アクセス
- 嵐電『北野白梅町駅』→徒歩10分
- 京都市バス『北野天満宮前』→下車すぐ
有料駐車場がありますが、京都市内観光は公共交通機関を推奨します。
スケール
有名神社に相応しい広さです。
観光
梅や桜、紅葉の季節の行くのがオススメです。外国人観光客の方も大勢見かけます。でも、予備知識が無ければ観光地としては物足りないのではないでしょうか?
パワー
巷では立地自体がパワースポットと言われていますが、人が多すぎるので星一つ減らしました。
北野天満宮の周辺地域
北野の地政学
京都御所から見て北極星の真下、つまり御所の北に創建されました。『北野』という地名も、御所から見て北に位置することに由来します。
え?京都御所からみて西じゃないか?
と思ってしまいますよね。実は、京都御所が現在の場所に落ち着いたのは中世以降です。平安時代はもっと西、ここ北野天満宮の南に面したエリアにありました。
当初の都市計画では、ここから南へ伸びる通りが京都の目抜き通りに据えられていました。しかし、西半分の開発が頓挫し廃れていったことで、市街地も御所も東遷していったわけです。現代でも、このあたりは京都の中心というよりは、やや西寄りのイメージですね。
上七軒
『上七軒』は北野天満宮の東に位置する小さな通りで、祇園や先斗町と並ぶ花街でもあります。上七軒歌舞練場では芸妓さんたちの踊りが鑑賞できます。毎年春に『北野をどり』が上演されます。
上七軒という名前に関しては、中世において北野天満宮再建の余った資材で7軒の茶屋が建造されたことに因みます。




北野天満宮東門
上七軒通を西へ進めば北野天満宮の東門に突き当たります。本殿・拝殿まではここから入ったほうが近いです。しかし今回は手前で左へ曲がって正面入口である一ノ鳥居を目指します。

北野天満宮境内
表参道
一ノ鳥居は大通りである今出川通に面しています。いちおう、ここが北野天満宮の正門であり、表参道の起点となります。
一ノ鳥居
さすがに有名神社だけあって、鳥居も狛犬も立派です。狛犬というよりは、獅子王と呼ぶべき風格です。
影向松
一ノ鳥居を潜ってすぐ右手に、石垣で囲まれた大きな松の木があります。北野天満宮創建当時からこの地にあると言われる御神木です。初雪の日には天神様がここに降臨し詩を詠むという言い伝えがあります。


ニノ鳥居
一ノ鳥居からニノ鳥居までの参道には多くの松の木が植えられています。北野天満宮建造の際、一夜で千本の松が生えたという言い伝えがあります。
また、参道の傍には撫牛が随所に見られます。撫牛はこの先にもたくさんあります。


三ノ鳥居
参道をまっすぐ進めば三ノ鳥居で、その先に楼門が見えます。ここまでは、多くの有名神社とよく似た配置です。
伴氏社
三ノ鳥居の傍に摂社の伴氏社が鎮座しています。祭神は菅原道真の母君です。本名は不明ですが、伴家の出自なので、そのように呼ばれています。


境内
すでに「境内」ですが、楼門から先が本当の意味での「境内」です(伝われ)
楼門
三ノ鳥居の先に楼門がありますが、ここから先の配置が他の有名神社と異なっています。この先に『三光門』という、もう一つの楼門がありますが、どちらも立派な外観です。

宝物殿
楼門をくぐってすぐ右手に宝物殿があります。戦国時代の刀剣や鎧、絵画などが展示されており、一部は撮影も許可されています。展示物は時期によって変わるとは思いますが、刀剣女子や外国人観光客にオススメです。
地主神社
一般的な神社では、楼門のまっすぐ前方に拝殿と本殿があります。しかし、北野天満宮の場合は配置が独特です。楼門から見て、前方には『地主神社』があり、本殿と拝殿は斜め左方向にある『三光門』の先にあります。
地主神社は名前からして、北野天満宮が創建される以前からこの地に鎮座していた神社であると推測されます。
摂社末社群
地主神社の左手には、多くの摂社や末社が並んでいます。祭神は北野天満宮の公式HPで解説されています。ほとんどが菅原道真に縁のある実在の人物か、もしくは天孫系の神々です。


本殿裏の社『御后三柱』
地主神社の左手あたりが本殿の裏側にあたります。本殿背面には『御后三柱』という拝所があります。
社名 | 御后三柱 Gokō-no-mihashira | 北野天満宮の摂社 |
---|---|---|
祭神 | アメノホヒ(天穂日命) | 菅原家の祖神 |
菅原清公 Sugawara-no-Kiyokimi | 菅原道真の祖父 | |
菅原是善 Sugawara-no-Koreyoshi | 菅原道真の父 |
アメノホヒ(天穂日命)は菅原道真の祖神とされています。オオクニヌシ(大国主神)に降伏を迫るべく遣わされたにも関わらず、任務を遂行せずにオオクニヌシに仕えてしまった神様です。のちに任務を遂行させたタケミカヅチ(武甕槌命)は藤原家の祖神なので、なんとなく藤原家との因縁を感じます。
本殿
一般的な神社と同様、本殿の前に拝殿があるため、本殿は横から見ることができます。また、本殿と拝殿の間は「石の間」で繋がっており、このような建築様式は『権現造』と呼ばれます。


中門『三光門』
本殿の裏側から塀伝いにぐるりと半周すれば『三光門』と呼ばれる中門があります。国の重要文化財に指定されています。
「三光」とは太陽と月それに北極星を指すようです。しかし、三光門に描かれているのは2つの太陽と1つの月だというのが通説です。御所から見て三光門の真上に北極星があるので、描く必要が無かったとされています。
実際にこの目で確かめてみました。たしかに、赤い太陽と黄色い太陽、それに三日月の「三光」が描かれています。
某Youtube動画では、黄色い太陽らしきものが実は北極星なんじゃないかと言及されています。確かに、黄色い太陽は赤い太陽に比べて少し小さく描かれていますし、北向きに掛けられているので、その可能性はあると思います。
けれども北極星って北斗七星が無ければ探すのも困難なほど暗い星なので、敢えて描かれなかったのかもしれません。その辺りは各自、好きなように解釈して良いと思います(投げやり)
なお、星を探すときは他の参拝客の邪魔にならないよう配慮しましょう。






織部形石燈篭
三光門をくぐる前に、右手の方向をご覧ください。聖母マリアが象られた石燈篭があります。織部形石燈篭またはキリシタン灯篭と呼ばれ、北野天満宮以外の場所にもあります。
古田織部(Furuta-Oribe, 1544-1615)がデザインを考案したとされています。彼は戦国武将であり茶人でもあり、クリスチャンでもありました。アニメ「へうげもの」(Hyouge-mono)で知った方も多いかと思います。
大黒天の灯篭
織部形石燈篭の向かい合わせに、大黒様を象った灯篭があります。大黒様の口に小石を挟んで落ちなければ「落ちない」つまり「合格する」という都市伝説?があります。でも、たぶん無理です。
あまりムキにならないように(笑


拝殿周辺
三光門をくぐれば、正面に拝殿があります。
拝殿
拝殿と本殿は「石の間」で繋がっており、拝殿の両脇には「楽の間」があります。また、それらの建造物を総称して「御本殿」と呼ぶ場合もあります。慶長十二年(1607)に、豊臣秀頼(Toyotomi-Hideyori)によって再建された建物群で、全て国宝に指定されています。
唯一の立ち牛
拝殿正面の屋根の下、牛が象られた欄間彫刻を見てください。ここに来るまでに、多くの撫牛を見てきたかと思いますが、そのどれもが座っています。しかし、この欄間彫刻の牛だけは立ちポーズをキメています。その理由はよくわかっていません。
ただ、他の牛が全て座っている理由は、菅原道真の遺骸を運ぶ牛車の牛が伏せたまま動かなくなった、という故事に因んでいます。
飛梅
菅原道真は自邸にある梅の木をこよなく愛していました。北野天満宮の社紋が梅の花を象っているのはその為です。
彼が太宰府へ左遷される際、梅の木に別れを告げるために詠んだのが以下の詩です。
“東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな”
・東風吹かば:東(太宰府から見て京都の方角)からの風が吹いたら
・匂ひおこせよ:(梅の)香りを(京都から太宰府へ)届けておくれ
・あるじなしとて:主人(=道真自身)がいなくても
・春を忘るな:春を忘れずに(咲き誇ってくれ)
その梅の木が太宰府の道真のもとへ飛んで行ったという『飛梅伝説』があります。拝殿前にある梅の木は、その『飛梅』と同じ種であると言われています。




梅苑・紅葉苑
三光門を出て右手に、有料エリアがあります。梅苑と紅葉苑です。
梅苑『花の庭』
梅苑内には1,000本以上の紅梅や白梅が咲き誇っています。開園期間は2月上旬から3月下旬までです。なお、写真は3月上旬のものです。
豊国神社・一夜松神社・野見宿禰神社
梅苑エリアの一角にも摂社・末社があります。この辺りの摂社・末社は複数の神社が一つの社殿で合祀されています。その中の一社というか三社が豊国神社、一夜松神社、野見宿禰神社です。
社名 | 祭神 |
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豊国神社 Toyokuni-jinja | 豊臣秀吉(1537-1598) Toyotomi-Hideyoshi |
一夜松神社 Ichiyamatsu-jinja | 一夜千松(境内に植樹されている千本松の魂) |
野見宿禰神社 Nomi-no-sukune-jinja | ノミノスクネ(野見宿禰) |
野見宿禰は第11代垂仁天皇や第12代景行天皇に仕えたとされる豪族で、実在したとすれば4世紀頃の人です。相撲や蹴鞠の達人であったことから、スポーツの神様とされています。また、意外かもしれませんが、菅原道真の祖先とされています。




御土居の紅葉苑
梅苑の先に天神川の土手があります。この土手は『御土居』と呼ばれ、豊臣秀吉によって造営された土塁です。当時の京都市街地をぐるりと囲む形で造られており、河川の氾濫や外敵からの攻撃を防ぐ目的だったと考えられています。
このあたりには300本以上の楓が植樹されており、『史跡御土居の紅葉苑』と呼ばれる紅葉の名所です。
写真は紅葉の季節のものじゃないけど・・
また、御土居からは北野天満宮の社殿を見渡すことができます。



北野天満宮の御朱印
有名神社だけあって色んなバージョンがあります。私個人的には「至誠」バージョンがシンプルかつ道真公らしくて好きです。
