涌出宮・祝園神社

涌出宮・祝園神社

涌出宮・祝園神社
わきでのみや・ほうそのじんじゃ
The Shrines of Wakide-no-miya & Hōsono-jinja
古代皇族の怨念を鎮める対の社

涌出宮・祝園神社の予備知識

涌出宮および祝園神社は木津川の両岸に佇む小さな郷社です。謀反の疑いで討伐された古代の皇族を葬った場所であり、地名の由来となっています。

両神社は別神社ですが、創建の経緯や祭祀において共通点が見られる為、敢えて同一記事に纏めました。

涌出宮・祝園神社の所在地

涌出宮

京都府木津川市山城町平尾里屋敷54
54 Satoyashiki, Hirao, Yamashiro-cho, Kizugawa city, Kyoto Pref.

祝園神社

京都府相楽郡精華町祝園柞ノ森18
18 Hohoso-no-mori, Hōsono, Seika town, Sōraku district, Kyoto Pref.

涌出宮・祝園神社の祭神

涌出宮

アメノフキメ(天乃夫岐売命)はあまり聞き慣れない名前かと思います。社伝によれば、奈良時代(766)に伊勢国度会わたらい郡、五十鈴川いすずがわ沿いの地域より勧請した神なのだそうです。おおよそ伊勢神宮の内宮のあたりなので、アマテラス(天照大神)と同一神とする説があります。その一方で、相殿神である宗像三女神のうちの1柱と同一神とする説もあるようです。

主祭神
アメノフキメ(天乃夫岐売命)
Ame-no-Fukime-no-mikoto
相殿神
タゴリヒメ(田凝姫命)
宗像三女神
Munakata-sanjoshin
イチキシマヒメ(市杵嶋姫命)
タギツヒメ(多岐都比売命)

祝園神社

古代史・神社巡りファンであれば、主祭神の名前を見た瞬間に「ま〜た藤原トリオか」と思うでしょう。そう、この3柱は藤原ふじわら氏の氏神うじがみです。この3柱が祀られている土地は大抵、藤原氏の荘園しょうえんだった場所です。

主祭神
タケミカヅチ(武甕槌命)
フツヌシ(経津主命)
アメノコヤネ(天児屋命)

実の主祭神は?

しかし、両神社とも上記の主祭神は建前であって、本当は別のある人物を祀っているのではないでしょうか? ある人物とは冒頭で述べた、謀反の疑いで討伐された古代の皇族、タケハニヤス王(武埴安彦命 / Takehaniyasu-no-mikoto)です。

皇族とはいえ、謀反人の烙印を押された人です。なので、近現代に至るまで、表立って祭神として崇めることは憚られたのではないでしょうか。

涌出宮・祝園神社の社名由来

涌出宮

奈良時代(766)に伊勢国から主祭神アメノフキメ(天乃夫岐売命)を勧請した際、突然「草木が湧き出るように生い茂った」ことから、その名が付いたと云われています。

また、涌出宮の正式名称は主祭神に因んで『和伎座天乃夫岐売神社わきにいますあめのふきめじんじゃ』です。『和伎神社わきじんじゃ』と呼ばれることもあります。

祝園神社

タケハニヤス王(武埴安彦命)をほうむった場所であることから、その名がついたと考えられています。神社名と住所の大字部分はいずれも『祝園ほうその』ですが、これは完全な当て字ですね。おそらく「葬る」では地名として縁起が悪いので、無理やり「祝う」を当てた可能性が考えられます。

しかし、住所の小字部分である『柞ノ森ほほそのもり』も気になります。『』は現代語では「ははそ」と読みますが、「ほうそ」Hohsoから転訛した可能性があります。

また、『』はブナ科の広葉樹であるコナラのことを指すそうですが、一方で「草木を刈り取る」という意味もあるそうです。涌出宮の社名由来と対比してみると、真逆の意味になっていて面白いですね。

祝園神社を主観的に格付け

由緒

★★★★☆
創建年不詳

両神社とも、少なくとも奈良時代には既に神社として存在していたことが確実視されています。しかし本来はタケハニヤス王(武埴安彦命)を供養するための霊的なスポットであったと考えられています。

タケハニヤス王は『古事記』や『日本書紀』に登場します。異母兄弟である第10代崇神すじん天皇に対して謀反を起こして討伐された人です。いつ頃の出来事なのか正確な年代は不明です。日本書紀に記載される年代を額面通りに解釈すれば紀元前1世紀初頭です。しかし解釈によっては、3世紀頃、邪馬台国卑弥呼の少し後くらいと捉えることもできるそうです。

社格

★★☆☆☆
式内大社旧郷社

祝園神社、涌出宮とも同格です。

知名度

★☆☆☆☆

両神社とも、地元民しか知らないのではないでしょうか? 遠方から来訪するのは、おそらく古代史マニアくらいでしょう。

アクセス

★★☆☆☆
  • 涌出宮:JR棚倉たなくら駅→徒歩0分
  • 涌出宮←→祝園神社:徒歩30分
  • 祝園神社:JR祝園ほうその駅&近鉄新祝園しんほうその駅→徒歩20分

両神社とも駐車場がありません。特に祝園神社周辺は道が狭いので車での来訪は推奨しません。

また、涌出宮はJR駅の改札前という好立地ですが、快速列車が停車せず本数も多くありません。しかも京都方面からだと、手前の駅で行き違い待ちをする為、想像以上に時間を要します。

スケール

★★☆☆☆

両社ともローカルな神社ですが、それなりに奥行き?はあります。

観光

★☆☆☆☆

パワー

★★★★☆
  • 涌出宮:雨乞い五穀豊穣
  • 祝園神社:五穀豊穣商売繁盛

涌出宮・祝園神社の周辺地域

精華町・木津川市の地政学

京阪奈学研都市

精華町から木津川市にかけての京都府南部地域は、京阪奈学研都市の一翼を担っています。丘陵地には研究施設群や新興住宅地が建ち並んでいます。

しかし、両神社が鎮座するのは丘陵地とは反対側、木津川沿いのエリアです。昔ながらの田園風景が広がる、長閑な地域です。

一級河川の天井川

木津川は京都府南部を流れる一級河川です。なおかつ、川の水面が周辺の平地よりも標高が高くなっている、いわゆる天井川と呼ばれる区域が多数存在します。

大昔から水害と戦ってきた歴史があることは想像に難くありません。この地域の支配者には、治水工事を成し遂げるだけの指導力が自ずと求められたことでしょう。

物流のハブ

古代は水上交通が物流のメインでした。奈良から最も近い大河である木津川は物流の大動脈だったと言えるでしょう。ちょうど木津川市のあたりで荷物が陸に揚げられ、平城京や藤原京に運搬されたと考えられます。まさに、物流のハブというべき地域だったのではないでしょうか。

大和の背後

ところで、木津川市を含む京都府南部は、旧国名が『山城やましろ』です。しかし平安遷都(794)以前は『山背やましろ』と表記されていました。おそらく、大和やまと背後うしろという意味です。首都である大和国の背後を守る重要な土地であり、アキレス腱でもあります。

もしここで謀反でも起こされたら脅威です。淀川水系を通って東国からも西国からも敵の援軍が攻めて来たら、ひとたまりもありません。

涌出宮(和伎座天乃夫岐売神社)

さて、前置きの話が長くなってしまいましたが、神社の案内をしましょう。まずは木津川の右岸(東側)に鎮座する涌出宮から。

参道

無人駅の改札を出ると、ほぼ真正面に立派な鳥居と社名碑が立っているので驚きます。くどいようですが、涌出宮の正式名称は『和伎座天乃夫岐売神社わきにいますあめのふきめじんじゃ』です。『和伎神社わきじんじゃ』とも呼ばれます。

私は学生時代もこの駅で数回、降りたことがあります。しかし神社があったという記憶がありません。

まあ、当時は神社なんて全く興味なかったし(-з-)

いざ鳥居を潜って中に入ってみると、意外と参道が長く、社名碑がただのハッタリでないことに気付きます。

突き当たりを左に曲がれば二ノの鳥居があり、その先に神門があります。

神域

仏教寺院のような佇まいの神門を潜った先に、本殿や摂社・末社があります。まあ、見た目はごくごく普通の小さな神社です。

なお、休日の昼間でしたが、参拝者は私一人しかいませんでした。

涌出宮から祝園神社へ

涌出宮の参拝を終えた後は、その足で祝園神社に向かいたいと思います。

棚倉駅周辺

改札と涌出宮は駅の東側にありますが、広い地下道を通って駅の西側へ出ることができます。

駅の西側には立派なロータリーがあり、十二支を象ったモニュメントが目を引きます。しかしバスは1日に数本しか無さそうですし、タクシーも電話で呼ばなければ来てくれなさそうです。

ちなみに、ここから祝園神社へは西へ直線距離にして1km程度です。まあ、私なら迷わず歩きます。

開橋

長閑な田園風景を抜ければ、木津川に架かる橋梁が見えて来ます。『開橋ひらきばし』という名前の橋です。もともと『ひらきの渡し』という渡し船のあった場所なのでその名が付きました。

車道用の橋に隣接して歩道用の橋もあるので、安心して渡ることができます。こうして眺めると、けっこう大きな川であることがわかります。

開橋を渡りきったところの左手に、こんもりとした小さな森が見えてきます。そう、そこがまさに祝園神社が鎮座する場所です。

祝園神社

祝園神社は開橋から見えた小さな森の反対側に回り込んだところにあります。見た目はごく普通の神社です。

参道

涌出宮に比べると、祝園神社の参道は長くありません。何箇所か、『いごもり祭り』(居籠祭)の説明書きがあります。

神域

見た目はまあ、普通の神社です。しかし、小さな森に囲まれているため、ひっそりとしています。拝殿幕に描かれている紋章は藤原氏の家紋の一種です(何て呼ぶのか忘れました)。

いずもり(武埴安彦破斬旧跡)

境外で恐縮なのですが、『いずもり』(武埴安彦破斬旧跡)を見ておきましょう。

祝園神社の鳥居を出て、そのまままっすぐ300m弱進んだあたりで左手を見てください。住宅地の合間に小さな空き地に、石碑が立っています。注意して見ないと絶対に見落とします。

石碑が立っている以外は、ただの空き地にしか見えません。実はこの場所が、タケハニヤス王(武埴安彦命)が処刑された場所と伝えられています。伝承では、タケハニヤス王の首が涌出宮まで飛んで行ったとされています。なので、首が涌出宮に、胴体が祝園神社にそれぞれ葬られたのだそうです。

後述の『いごもり祭』では、綱引きに勝ったチームがここで綱や注連縄を燃やすのだそうです。しかし、なぜこの場所で燃やすのでしょう? 後で述べますが、崇神天皇時代の疫病蔓延と結びつければ、色々と憶測することができます。

涌出宮・祝園神社の奇祭『居籠祭』

当サイトの基本方針として祭祀や行事の記事は省いているのですが、ざっくりとだけ紹介します。

居籠祭とは

『いごもり祭り』(居籠祭)は涌出宮と祝園神社、双方の神社で行われるお祭りです。京都府指定無形民俗文化財に指定されています。

この祭祀はタケハニヤス王(武埴安彦命)の怨念を鎮めるために始まったと伝えられています。元来、祭祀の期間中、氏子うじこ(その神社の神を崇める地元民)には以下のルールが課せられていたそうです。

・家に籠る

・音を立ててはいけない(扉は開けっ放しにする)

・料理を作ってはいけない(事前に作っておいた精進料理のみを食べる)

・家畜を遠方に預ける

特に、音を立てるなというのがユニークですよね。なので「音無しの祭り」と呼ばれることもあるそうです。とはいえ、現在ではこういった風習は廃れていっているようです。時代とともに形が変わっていくのは当然といえるでしょう。

日程と内容

涌出宮

大まかな日程と儀式は以下の表の通りです。これだけ見れば、普通のローカルなお祭りと大差はなさそうです。

ただ、【非公開儀式】となっているものは、見物してはいけないとされている儀式です。表に掲載している以外にも、いくつかあるようです。

開催期間2月第3土曜日より2日間※
1日目午後7:30開始※野塚のづか神事小型の農具を奉納する(らしい)
【非公開儀式】
かどの儀御神酒出し、御膳出し
大松明おおたいまつの儀大松明おおたいまつを燃やし夜空を照らす
2日目午後2:00開始※御供炊きごくたき神事御供を神殿にお供えする(らしい)
【非公開儀式】
饗応あえの儀御神酒出し、御膳出し
御田おんだの式豊作祈願祭
※日程、開始時刻は年によって変更の可能性あり

祝園神社

涌出宮と同様、【非公開儀式】に該当するものは見物を控えましょう。

開催期間正月初回の「申の日」より3日間※
ただし「申の日」が3回ある場合は2回目の「申の日」
1日目風呂井ふろいの儀井戸で鎮魂の儀礼をおこなう(らしい)
【非公開儀式】
2日目午後7:00開始※御田おんだの儀大松明おおたいまつを燃やし夜空を照らす
【大松明巡行を除いて非公開】
3日目午後3:00開始※綱曳つなひきの儀綱引きで勝ったチームが『いずもり』で綱を燃やす
※日程、開始時刻は年によって変更の可能性あり

本来の意図はパンデミック対策だった!?

ここからは、私個人の憶測や妄想を含んだ話になりますので、話半分に見てください。

この祭祀の本来の目的は、疫病対策だったのではないでしょうか?

パンデミック発生

『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に、国の人口が激減するほど疫病が蔓延したとあります。時系列的にはタケハニヤス王(武埴安彦命)の反乱よりも少し前のようです。

その際、崇神天皇はオオタタネコ(大田田根子)を大神神社の祭主とすることで疫病を鎮めたとあります。

しかし古代人が全員、迷信ばかり信じていたとは限りません。一部の渡来人をはじめとする支配階級の中には、医学に知見のある人物もいたのではないでしょうか?

本当はその時に、医学的・科学的な疫病対策を施したのではないでしょうか?表向きは宗教的儀式に見せかけて。

パンデミック封じ政策が祭祀化

そのノウハウを、数年後の反乱鎮圧の際にも適用したと考えられないでしょうか。つまり、タケハニヤス王や多数の兵士たちを火葬することで、この地域でパンデミックが再発することを未然に防いだのではないでしょうか。もし再発すれば、当時の人々はそれをタケハニヤス王の怨念の仕業だと恐れたことでしょう。

先述の、祭りの風習を現代医学の常識に重ね合わせて解釈してみます。

・家に籠る=ソーシャルディスタンス

・音を立ててはいけない=大声での会話による飛沫拡散防止

・扉を開けっ放しにする=換気

・料理を作ってはいけない=ウィルス付着による集団感染防止

・家畜を遠方に預ける=宿主からの感染防止

・綱や松明を燃やす=火葬

本来はこのような目的で行われた施策が、祭祀として年月とともに形を変えつつ、現代まで受け継がれているのではないでしょうか?

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