
吉野神宮
Yoshino-Jingū Shrine
吉野神宮に関する予備知識
吉野神宮は全国で24社ある『神宮』の一社です。14世紀南北朝時代の後醍醐天皇を祀るため、19世紀の明治時代に創建されました。
吉野神宮の所在地
吉野神宮の祭神
主祭神 | 後醍醐天皇(1288-1339) The 96th Emperor Go-Daigo | 何かにつけ後鳥羽上皇と混同されがち |
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吉野神宮を独断格付け
由緒
社格
知名度
アクセス
- 近鉄『吉野神宮』駅からタクシー5分
交通至便とは言い難いです。とはいえ、いわゆる酷道や険道を通る必要はありませんし、駐車場も整備されています。
スケール
観光
周辺地域は桜の名所として有名ですが、冬季の雪景色も美しいものです。
パワー
吉野神宮創建の背景
まず、予備知識として不可欠な南北朝時代に関して、ざっくり説明しておきましょう。
南北朝時代とは
南北朝時代とは、おおよそ室町時代前期(14世紀後半)を指します。その頃、天皇家が京都の北朝と吉野の南朝に分裂していました。つまり、京都と吉野、それぞれに天皇が存在していた時代のことです。
北朝は足利家率いる武家勢力によって擁立されました。それに対し、南朝を擁立したのは寺社や公家などの勢力です。ただ、この類の話は若干タブー視されている側面があります。
後醍醐天皇
主祭神の後醍醐天皇(1288-1339)は、南朝サイドの初代天皇です。
室町幕府設立者である足利尊氏(1305-1358)とは、鎌倉幕府打倒までは協力関係で、それ以降は対立関係です。足利尊氏は後醍醐天皇に対抗すべく、別の皇族を天皇として擁立しました。これが北朝サイドの天皇です。
南北朝時代
その後、北朝と南朝の攻防が続きましたが、次第に北朝が優勢となり、足利尊氏は室町幕府を開いて政権を掌握しました。
そして数十年の時を経て、足利尊氏の孫であり金閣寺の創建者である足利義満(1358-1408)によって、南北朝は統一されました。北朝側が南朝側に平等な条件を持ちかけての統一でした。しかし、結局のところ北朝に一本化されてしまいました。
南朝の正統化
そういう経緯なので、室町幕府やそれを継承する(というと語弊があるかもしれませんが)江戸幕府は、北朝のみを正統な皇統として扱っていたことは想像に難くありません。
ところが時代が変わって明治の世になると、南朝も正統な皇統として復権させようという政策に転換されました。吉野神宮の創建は、その政策の一環だといえるでしょう。
吉野神宮の周辺地域
吉野といえば桜の名所として有名で、なおかつ数々の歴史的出来事の舞台となりました。
なお、訪問時は辺り一面雪景色でした。飛鳥あたりまでは雪の「ゆ」の字も見当たらないのに、ここは別世界のようでした。
近鉄吉野神宮駅
吉野神宮は近鉄吉野神宮駅から少しだけ山道を登った場所にあります。歩いて行ける程度の距離ですが、道路に歩道が無く、坂道もわりときついです。素直にタクシーを使うべきでしょう。
吉野神宮境外
タクシーで5分もかからないうちに吉野神宮の表鳥居前に着きます。ここで降りて参道を歩くのがオススメです。でも、坂道が辛い場合はもう少し先の境内駐車場まで行きましょう。
参道(表鳥居〜大鳥居)
表鳥居から大鳥居まで距離は100m程度ですが、けっこうな坂道です。
それにしても、ここの雪景色は絵になります。時代こそ違いますが、後醍醐天皇だけでなく、大海人皇子(第40代天武天皇)や源義経もこの道を歩いたことでしょう。彼らが雪景色を見ながらどのような想いを描いていたか、想像すると哀愁を誘われます。




大鳥居周辺
さて、大鳥居から先が境内です。
由緒書きに『祭神・後醍醐天皇』の文字が記されています。歴史の教科書に出てくる人物の名前を見ると、テンション上がりますよね?



吉野神宮境内
大鳥居から見て真正面に、神門、拝殿、本殿が一直線上に配置されています。いずれも県の重要文化財です。
神門
まず、大鳥居の真正面に神門があります。振り返って眺める大鳥居もなかなか美しいものです。


拝殿
神門をくぐった先、真正面に拝殿があります。また、ここの左手にある授与所で御朱印等を入手できます。


本殿
拝殿の真正面に本殿が堂々と鎮座しています。

摂社三社
拝殿の右手前に、摂社三社が合祀されています。なお、祀られているのは、いずれも後醍醐天皇に味方して敗れ去った公家や武士たちです。
祭神
配置 | 社名 | 祭神 | |
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左手側 | 御影神社 | 藤原資朝(1290-1332) Fujiwara-no-Suketomo | 鎌倉幕府打倒計画が発覚して処刑された |
藤原俊基(?-1332) Fujiwara-no-Toshimoto | |||
中央 | 船岡神社 | 児島範長(?-1336) Kojima Norinaga | 通称和田二郎、北朝の足利軍と戦うが敗れて自害 |
児島高徳(?-?) Kojima Takanori | 児島範長の息子、『太平記』の作者小島法師と同一人物説あり | ||
櫻山茲俊(?-1332) Sakurayama Koretoshi | 鎌倉幕府打倒のために戦うが敗れて自害 | ||
右手側 | 瀧櫻神社 | 土居通増(?-1336) Doi Michimasu | 北朝の足利軍と戦うが敗れて討たれる |
得能通綱(?-1337) Tokunō Michitsuna |
特に印象深いのは『太平記』の作者と同一人物説がある児島高徳。『太平記』はこの時代を描いた歴史小説で、大河ドラマの題材にもなりました。ちなみに足利尊氏役は真田広之でした。


東門・裏鳥居
せっかくここまで来たのですから、参拝を終えた後は金峯山寺方面へ向かいましょう。拝殿を背に、右手方向に東門と裏鳥居があります。


吉野神宮から金峯山寺へ
吉野神宮〜吉野山駅
裏鳥居を出て、県道を2km程度南へ進めば『金峯山寺』方面へ行けます。ただし、歩道が無い上に冬季はバスもありません。もうちょっと、どげんかしてほしいものです。
村上義光の墓
吉野神宮を出て1kmほど進んだ地点に、村上義光(? – 1333)の墓があります。ミニチュアの鎧が雪景色と相まって哀愁を漂わせてくれます。
彼は吉野城の戦い(1333, 後醍醐天皇vs鎌倉幕府)で天皇側に味方して戦うも敗北。後醍醐天皇の息子である護良親王の身代わりとなって自刃しました。しかし、親王本人でないことが発覚すると、鎌倉幕府軍によってその遺体は無残に打ち捨てられました。それを哀れんだ地元民によって、この場所に埋葬されたそうです。

昭憲皇太后御野立跡
さて、村上義光の墓所を後にして、400mほど歩けばプチ展望台があります。明治天皇の皇后だった昭憲皇太后(1869-1912)がこの場所から桜を眺望したそうです。そう、ここは有名な吉野山の千本桜を眺望できる場所なのです。

ロープウェイ吉野山駅
そして、昭憲皇太后の展望台から300mほどで、吉野ロープウェイの吉野山駅前に到着します。ここから金峯山寺まではもうすぐです。
なお、ロープウェイで降りれば近鉄吉野駅前に出られます。


吉野山駅〜金峯山寺
吉野山駅のあたりから、金峯山寺の門前町という様相を呈しています。途中、金峯山寺の鳥居がありますが、これは神仏習合の名残でしょう。


金峯山寺
金峯山寺は修験道の総本山です。熊野三山と共に、ユネスコ世界文化遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成要素となっています。


吉野神宮の御朱印
吉野神宮の御朱印には通常Ver.と後醍醐天皇Ver.があります。また、摂社三社をひとまとめにした御朱印もあります。


